2012年5月20日 (日)

映画 『ファミリー・ツリー』と『幸せの教室』

立夏が過ぎたので
季節は「初夏」になります。
街を歩くと青葉が目に沁みますね。
梅雨のまえの
さわやかなときを
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

こんな季節にふさわしい映画を
2本見ました。
共通するキーワードは「幸福」。

ひとつは『幸せの教室』、原題はLarry Crowne。
Larry Crowneは主人公の名前。
トム・ハンクスがさわやかに演じています。
5月の風のように、実にさわやかに。

山田昌弘氏はその著書『幸福の方程式』のなかで
幸福をいくつかの要素に分けて定義しています。
そのひとつが「手ごたえ実感」だという。
「知っていることが増えたとき、できなかったことができるようになったとき、お金が増えるいるとき、自分が成長しているのを実感したときなど、人生の手ごたえを感じるとき、わたしたちは、幸福を感じると思います。それが『手ごたえ実感』です。」

その「手ごたえ実感」を追体験させてくれる映画が
見ごたえのある映画ということになるのではないでしょうか。
残念ながら『幸せの教室』には「手ごたえ実感」がなく
あまりに軽やかに私の中を通り過ぎて行きましたね、
5月の風のように。

もうひとつは『ファミリー・ツリー』、原題はThe Descendantsです。
こちらはジョージ・クルーニーが演じています。
彼が苦悩し、成長していく様子が描かれているので
こちらは「手ごたえ実感」があります。

山田氏は同じ著書の中で次のようにも述べています。
「人は自分の心の中で幸福を持つだけでは足りず、他人とのつながりの中に幸福を見つけていくのです。」

ジョージ・クルーニー演じるマット・キングは
妻との「つながり」は絶たれたけれど、
より大きな「つながり」に目ざめていきます。
descendant(子孫)として。
これはオススメの映画ですね。

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2012年5月 6日 (日)

『プラグマティズムの作法』藤井聡著

連休最終日。晴れているけれど、ときおり風がはげしく……。
外出しようかどうしようか、と躊躇してしまうのだが。
まるで人生のようだ。
たしかに一つひとつの選択の積み重ねが人生になる。
ということは比喩として表現してはいけない。
「人生のようだ」ではなく「これが人生だ」が正しい。

先日読んだ『第四の消費』もそうだったけれども、
この『プラグマティズムの作法』も、
これからの生き方のヒント・指針をあたえてくれる、
明るくなれる本ですね。
パースの「プラグマティズム」とか
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」とか
たんなる哲学の勉強としても面白いけれども
現実の生活と結び付けて書いてあるので
生きていくうえで、
あるいは、
仕事をしていくうえで
役立ちそうな気がします。
そう、「プラグマティズム」とはそういうことなんです!

筆者はキリスト教圏で生まれた「プラグマティズム」を非キリスト教圏である日本でも使えるように次のように解釈しなおしています。
「一つに、何事に取り組むにしても、その取り組みには一体どういう目的があるのかをいつも見失わないようにする。 二つに、その目的が、お天道様に対して恥ずかしくないものなのかどうかを、常に問い続けるようにする。」
儲かれば何をやっても構わないなんて商売はもちろん駄目です。
金儲けは目的にはならない。
実は日本には昔からある考え方だという。
「近江商人」の間では「三方良し」という言葉が大事にされてきたらしい。
「三方良し」とは「売り手良し、買い手良し、世間良し」ということ。
これは「第四の消費時代」にふさわしい考え方だといえるかもしれません。

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2012年5月 4日 (金)

『第四の消費』三浦展著

青空が顔を見せ始めました。
さあ、こんな日は街に出よう!
そして何かを「消費」するのです。

先日、『ジョン・カーター』という映画を観て
「まさに映画を『消費した』といった感じだ」と書いたのですが、
あの「消費」はどういう意味だったのだろうか。
「使い尽くして消えてしまった」ということだろうか。
金と時間を使って、その刹那だけ楽しみ
あとには何も残らない、
といった感じで使った言葉だと思います。

これからの「消費」は違ってくると三浦氏は言う。
フランス語の「コンソマシオン(消費)」には「完成・成就」といった意味も含まれる。
三浦氏は山崎正和氏の言葉を引用しながらこう述べる。
「・・・つまり、消耗を、自己充足に変換すること、これこそが消費の最終的な成熟の姿であると山崎は予言した。消費社会の限界と成熟を、つまり、消費社会が『使い尽くされて完成すること』を山崎は希望しつつ語ったのである・・・」

見終わった後に自分の中で
何かが「完成」するような映画が
これからはもっと求められるのかもしれません。

さあ、外に出て
何かを「消費」しよう。
そして新しい自分になって
戻ってこよう。

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2012年5月 3日 (木)

映画『バトルシップ』と『BLACK&WHITE』

雨降りの憲法記念日。
日本国憲法が泣いているのかもしれない。
新聞を読んでいて、先日読んだ『日本の文脈』の一節を思い出した。
忘れないうちに書き留めておこう。
内田氏の発言から。
「民主主義が効果的に機能するのは、血を流してこのシステムをつくった人が現にいるのだという切迫感、その人たちから贈与されたものであるという被贈与の感覚があってこそだと思うんです。アメリカの民主主義も、建国の父たちの血で購った独立国家民主制なわけで、身銭を切ってわれわれにこのシステムを寄贈してくれた先人がいるんだという被贈与の感覚があるときには、民主主義が健全に機能する。でも、その『感謝の気持ち』が時間とともに希薄化していって、デモクラシーというシステムがまるで昔から自然物のようにずっとあったものだと思い出すと、うまく機能しなくなる。民主主義というシステムは、たえず誰かが身銭を切って下支えしないと保たないんです。……」
ここでまた思い出すのが丸山真男の言葉です。
「権利の上にねむる者」という言葉だ。
たしか以前も引用したことがあると思うのですが、
「権利の上にねむっていると、そのうち、その権利を失うよ」
ということでした。(丸山真男著『日本の思想』p154)
「感謝の気持ち」をなくさないために、
歴史を勉強する必要があるんでしょうね。
あとは想像力。
それが出来なければ
痛い目に遭うしかない。
痛い目に遭って初めてわかる、
っていうことの方が多いのでしょうが……。

さて、先日みた映画『バトルシップ』。
TBSラジオ『ウィークエンドシャッフル』でライムスター歌丸氏が
「これは『おまつり映画』だ」と評していたが
まさにそのとおりでしょう。
ただ、映画を観ている最中、私の頭の中には
「このエイリアンはほんとうに『敵』なのか」
「地球人が『正』でエイリアンが『悪』なのか」
といった疑問が渦巻いていた。
いずれにせよ、
これは戦意高揚映画でしょう。

もうひとつ。『BLACK&WHITE』について。
CIAの凄腕エージェントのふたりが
一人の女性をめぐってバトルをくりひろげる。
しかもCIAのハイテク兵器を駆使して!?
イケメン俳優のアクションが楽しめますね。
『バトルシップ』もそうなのだけれど、
戦闘シーン・アクションシーンがリアルだ。
「リアル」といっておきながら本物を見たことなどないけれど。
冷静に考えてみると、
それって、恐いことではないでしょうか。
「戦闘って、かっこいいんだよ、爽快なんだよ」
無意識のうちにそんなイメージが刷り込まれているような感じだ。
『BLACK&WHITE』の副題は「This Means War」。
この「戦争」で負けないためには
作品世界にどっぷりと没入してはいけない。
斜に構える必要があります。
ただ、そんなことをしていると
映画は楽しめません。

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2012年5月 2日 (水)

『「勉強しろ」と言わずに子供を勉強させる言葉』小林公夫著

書店にいけば
「ハウツーもの」といわれる本が
たくさん売られていますね。
みんな勉強熱心ですが、
「ああすればこうなる」といった思考が
蔓延しているともいえます。
何でもすぐに「答え」を求めたがる。
かくいう私もその一人ですが。

世界は言語であり、言語は世界である。
言葉のなかで人は育っていくわけだから
子供に対する「言葉かけ」は重要である。
ただ、ここで忘れてはならないことがあります。
子供という自然を相手にしているのだということ。
自然は完全にはコントロールできません。
いや、コントロールしようなどというのは思いあがっています。
農業と同じです。
「手入れ」が肝心になってくる。
こんなこと、どこかで養老先生が書いていたような気がしますね。

まあ、そんな心構えで読んでいくといいと思います。
参考になりそうな箇所をいくつか引用しておこう。
「人格を否定するのではなく、子どもの『行為』を正す」
 たしかに「あなたって、ダメな人ね」などと言いそうです。
「子どもの言い訳や都合の良い解釈を、ストレートに批判しない」
 これは大人に対しても同じことが言えそうですね。
「前向きに行動できる選択肢を二つ投げかける」
 これについては以前、心理学か何かの本で読んだような気がします。
「自分のためだけでなく、人のためにも勉強している」
 これはレベルが高い。人は社会的存在である。

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2012年5月 1日 (火)

『日本の文脈』内田樹・中沢新一

何かのヒントが隠されているような対談集です。
それが何なのか。うまく表現できないのです。
明確な目的意識・合理的な思考といったものが、
仕事をすすめていくうえで
何かを実現するうえで
大切なこととして、よく挙げられます。
これから読もうとしている『プラグマティズムの作法』という本も
それらしきことが書かれているような予感がしているのですが。

しかし、この対談集で強調されているのは
それとは逆のこと。
たとえばブリコラージュについて。
「ありもの」で用足しをすることを
レヴィ=ストロースがそう呼んだという。
インディオたちはジャングルの中を歩いていて
「これはそのうち何かの役に立つかもしれない」と思うと
それを背中の袋に入れておくらしい。
「どういう機能を果たすかわからないものについて、その有用性を先駆的に先取りしている」ということ。
そんなふうに「何となく」感じる能力の大切さについて説いています。

最近、どこの学校説明会にいっても
「シラバス」といった言葉を聞きます。
内田氏はこの「シラバス」についても懐疑的だ。
「…学校というのはやはり謎を中心に構築されるものだと思うんです。入学前の時点で、『四年間これを勉強すると、こういう知識や技術が身につき、こういう資格が取れます」というふうに一覧的に教育プログラムを開示する必要なんかない。謎がシグナルを送ってくる。『解いてみないかい?』と誘ってくる。感度のいい子はそのシグナルに反応して、ドアを押し開いたり、階段を上がったりしているうちに、見たこともない世界に入り込み、入学前には自分がそんなことを勉強するなんて思ってもいなかったことを学ぶようになる…」

ところが「ああすればこうなる」といった思考が蔓延している(養老先生による)。
物の商品であればそれでいいかもしれない。
しかし教育は物ではない。
それなのに
「商品」を買うのと同じ感覚で「教育」を買おうとする。

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2012年4月30日 (月)

裏高尾から高尾山山頂を目指す

 久しぶりに「謎の?登山部」の活動記録です。約1年ぶりですね。去年の6月、横浜市と鎌倉市の最高峰を制覇して以来、私たちは目標を見失っていたようだ。あたかも頂点を極めたアスリートが燃え尽きてしまったかのように!?
 連休2日目の日曜日10時半、「謎の登山部」がJR高尾駅北口に再集結した。再出発にはふさわしい絶好の登山日和だ。仕事からしばしの間、解放される! まあ、「しばしの間」だからいいのかもしれない。また戻れる仕事があるからこそ、味わえる解放感なんだろうなあ。レクリエーション(レ・クリエーション、つまり再・創造)である。再び何かを創りだすために私たちは休むのである。何を創りだすのか、よくわからないが。それもまたいい。登山部の「西城秀樹」さんはわざわざ岐阜から参加してくれました。ありがとうございます。
 JR高尾駅北口。登山客でかなり混みあっている。ここでこれほどの混雑なのだから京王高尾山口は推して知るべし。北口から甲州街道をてくてくと歩いて(バスには乗らずに! さすが「登山部」だ)高尾山の登山道まで行こう。しかし、妙な意気込みはえてして空回りする。わが「登山部」お得意の「迷走」が始まる。どうやらすぐに挫折、いや左折したのがよくなかったらしい。迷ったら原点に戻れ。人生なんて、その繰り返しだ。
  何とか無事に旧甲州街道に入る。途中、小仏関跡がある。石碑があるのでそれとわかImgp0070_2 るが、いまは小さな公園となっている。江戸時代、ここに関所があったのか。そう思って見回してみると、公園内の高低差が気になってきた。「ブラタモリ」の影響か。八重桜が咲いている。
 「圏央道反対」の看板がいくつか立っている。そして文明の巨大建築物「圏央道」が現れる。それを見上げるように歩いていくと、奇妙なトルソーらしいオブジェがあった。それは滅びゆく人間の姿を象徴しているかようである。この旧道は何なんだ!Imgp0088  
 竹林が見えてくる。いままさに「竹の秋」。『歳時記』にはこう書いてある。
「竹の秋 [竹秋]竹は他の植物とは逆に、春4月頃に葉が黄ばんでくる。それが秋Imgp0093 の黄葉を思わせるところから『竹の秋』という。したがって、葉が青々とする秋が『竹の春』である。味わいのある季語といえよう。『竹秋』は陰暦三月の異名」
 国破れて山河あり。人が滅んだあとに、ひっそりと竹林がある。葉が黄ばんでいる。誰にも気づかれずに……。この街道をこんなふうに読みとって歩くのも面白い。
 それにしても暑い。何とか登山道に辿りついた。登山道の木陰は空気がひんやりとしていて気持ちがいい。裏高尾から登る登山客は少ない。何にでも「裏」はあるものである。下山してくる人たちが何人かいた。山頂はすごく混みあっていて「銀座のようだ」という。「銀座」という比喩がいかにも年配の方らしいが。Imgp0110
 ということで、山頂の手前で昼食をとることにした。これは、わが登山部にはめずらしく正しい判断であった。山頂間近では長い行列が出来ている。山頂にはまImgp0134 さに立錐の余地もない。
 私たちは厭世感にとりつかれているか。人混みを避けて下山しようと裏高尾に向かうが、道標のない分岐点に出てしまった。こちらのコースは登山客が少ないので、道標も出ていない。登山客の力が試されている。試されるほどの力を持ち合わせていない我ら「登山部」はすぐに自分たちの力不足を認める賢者でもある。迷ったら原点に戻れ!
 結局、山頂付近まで戻り、ケーブルで下山することにした。整理券が発行されている。50分待ちである。別に先を急ぐ必要はない。私以外は缶ビールでのどの渇きを癒している。私は今日の疲れと日ごろの心労?が重なり少し頭痛がしたので、黒豆茶にしておいた。あ、そういえば、「天狗焼き」というのが美味しいと教えてくれた人がいた。食べてみようと思い立ち、買おうとしたが、もう今日は完売だという。くやしい。まあ、願いはすぐに叶わない方が人生は楽しいのかもしれない。それを思っている時間が長ければ長いほど、願いが叶ったときの悦びは何倍にもなるものだ。恋愛と同じだ。

 

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